(3) 実用文と芸術文

大体、文章には前にもいったように実用的なものと芸術的なものとの二種がある。実用的な文章は実際の社会生活に必要な文章、用事を足すのが目的の文章で、芸術的なものは実用を兼ねる場合もあるが、多くは相手に美しい感じとか、生きる喜びとか、あるいは悲しみを慰めるために作られる文章のこと。

実用文は用事の手紙とか、新聞記事、契約書、広告文、研究調査の報告、政治上の声明書などになり、芸術文の方は詩歌、俳旬、小説、戯曲、随筆などその他の精神を通して相手に働きかける文章になる。文豪故幸田露伴は「実用文は地図の如く、美文(芸術的文章)は風景雨の如し」と述べているがこれはまったく至言である。

芸術的文章について少々。芸術的文章は二つに分けられる。韻文と散文。韻文というのは字や音の数とか、韻という一つのきまりに従って書かれたもののことである。俳句の十七文字、和歌の三十一文字などは五七五、五七五七七という音律をもっているし、漢詩はまた五言とか七言とか韻を踏んで読まれ、新体詩は七五調とか八六調とかに作られる。さらに奈良、平安時代の古い長歌は五七、五七、五七と長くつづいて終りにくると五七七という律になっている。また旋頭歌は五七七五七七の律になっている。散文というのは一般に書かれる普通の文章のこと、韻や字数などに関係なく誰にも自由につくることができるもの。

「源氏物語」「枕草紙」「古事記」「土佐日記」などこれは何れも日本の古典と称するものであるが、今読むと私どもの言葉とは違っているが、これもその頃の日常語で書かれたものである。ずっと後になって文章と日常語が切りはなして用いられたことかおり、それは普通の言葉で話しをするのは失礼に当るように考えられたために添文調や擬古文などで話をした時代だったのである。

そんなわけで文章体とか口語体とかいう区別が生じるようになった。口語といってもその時代の言葉は今と違って数も少いし、使い方にもいろいろ制限があった関係上、私どもの豊富な現代語から見れば簡潔過ぎて、解読するのに非常にむずかしく感じるわけである。

それから考えると今は外国語も、私どもの日常語として消化されるようになったものが非常に多く、名詞も形容詞もふえているので文章をつくるのには便利になってきている。しかし、だからまた言葉の選び方や文章の組立てなどにも一層苦心しなければならない点もあるといえるであろう。

手紙のことを書簡文ともいう、書簡文はまた書翰文とも書く。簡は竹の札の意味で、紙の発明以前の中国などでは竹の札に手紙を書いたからである。また翰は鳥の羽のこと、毛筆がつくられる以前には鳥の羽根が筆の代りをしていた。そこで書簡といえば「紙に書いたもの」であり、書翰といえば「筆で書いたもの」厳密にいえばこういう意味になるのである。

もともと「手紙」という呼び名は「文字を書いた紙」というか意味からきている。この場合の「手」は書道や芸道などでいう「手があがる」「手筋がいい」などに使われている手と同じ意味で「手紙」の「手」は「文字」のことになる。平安朝の頃は手紙のことを消息とか往来とかいっていた。往来は文字通り、往ったり来たりのこと。「しょうそこ」は今は「しょうそく」になったが、消は消える、つまり往くこと、息は利息などの息で、生まれる、育つ、ふえるなどの意味があり、転じて「来る」になって「消息」は結局「往来」と同じことになるわけである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする